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漢字は日本発祥という起源説を考察!神代文字のルーツとは!

 

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漢字が中国で生まれ、その後日本に伝わったというのは一般的な見解ですが、最近ではこの常識を覆す新しい説が提唱されています。

この新説によれば、漢字は中国で発展したかもしれませんが、その起源は実は日本の古代文字、神代文字にあるとされています。

この神代文字が中国に伝わり、それが漢字の形成に影響を与えたというのです。

もしこの説が事実であれば、漢字の起源に関する歴史的な理解は大きく変わり、漢字も日本の文化として誇るべきものとなるでしょう。

今回は、漢字が日本起源であるという説に焦点を当て、漢字の発祥から日本への伝播、そして神代文字がどのように漢字のルーツとされるのか、漢字がどのように変化したのか、さらに日本での漢字の驚異的な発展についても詳しく解説します。

学校では教えられない漢字の起源に関する話、この記事では、「漢字は日本発祥という起源説を考察!神代文字のルーツとは!」と題してお伝えしていきます

漢字が日本に伝わった定説

 

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日本人が漢字を目にしたのは、九州で出土した金印や中国製の銅銭などから見て、弥生時代の1世紀頃とされています。

当時の金印には「漢委奴国王」という文字が刻まれ、中国の新王朝の銅銭には「貸泉」という文字が見られます。

この時期、日本は中国に使者を送っており、その交流を通じて漢字が日本に伝わったと考えられます。

5世紀頃には、朝鮮半島の百済から「論語」「千字文」などの書物が献上され、約2,000種類の漢字が日本に伝わったとされます。

実際、5世紀頃からは日本製の鉄剣や銅鏡に漢字が刻まれており、この頃には日本でも漢字の使用が始まっていたと思われます。

6世紀から7世紀にかけては仏教の伝来や中国への使節派遣により、日本国内で漢字の使用が広がりました。

8世紀には「古事記」「日本書紀」などの書物が作られ、これらはすべて漢字で記されていることから、漢字が日本の文字として定着していたことがわかります。

平安時代には、漢字から現代のひらがなに通じるかな文字が生まれました。

このように、漢字は中国から伝わり、日本で独自の発展を遂げたとされていますが、実際のところはまだ疑問が残ります。

漢字が日本起源説、漢字発祥の本家は日本!

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実は、漢字が日本が起源であるという説があり、日本の古代の文字が漢字のルーツである可能性が指摘されているのです。

漢字の起源について中国での伝承を見てみると、5000年以上前の三皇五帝時代、黄帝に仕えた蒼頡という賢者が漢字を発明したとされています。

蒼頡は、動物の足跡からその動物を特定することにヒントを得て、動物の特徴を記した記号を作り、これが漢字の始まりだったと言われています。

彼が漢字を発明した際には、鬼が夜中に泣き声を上げ、天変地異が起こったとも伝えられています。

漢字の誕生は、そのように神秘的なものだったとされています。

ただし、蒼頡は伝説上の人物であり、実際に誰がいつ漢字を発明したのかは明らかではありません。

漢字の起源に関しては、一般的には紀元前1300年頃の中国殷王朝時代に遡る甲骨文字がその始まりとされています。

甲骨文字とは、亀の甲羅や動物の骨に刻まれた文字で、主に占いの結果を記録する目的で使用されました。

甲骨文字は、直線の鋭い組み合わせで構成され、絵に近い形をしています。

例えば、「人」は側面から見た人の形を模していて、「立」は手足を広げた人の形の下に地面を示すもの、「並」はこれが2つ並んだ形といった具合です。

「日」は横長の四角の中に横棒が入った形で、現代の漢字に似ています。

甲骨文字は神との交信手段として生まれ、後に周王朝では多部族との契約に使用されました。

秦の始皇帝の時代、紀元前221年には、各地で異なる漢字を小篆という字体に統一し、中国で初めて漢字が統一されました。

しかし、小篆は複雑で装飾的であったため、より簡略化された隷書が生まれ、6世紀から10世紀の唐の時代には、さらに簡略化され直線化した楷書が一般的になりました。

甲骨文字は、複数のパーツを組み合わせた高度な構成の文字であり、現在の漢字とは形は異なるものの、成り立ちや構造は似ています。

例えば、「休」は人と木の組み合わせ、「取」は耳と右手の組み合わせで表されています。

動詞や形容詞の意味を含む文字も存在し、甲骨文字は複数の記号や文字を組み合わせた完成形に近い文字でした。

これらの記号や文字がどのようにして生まれたのかは、まだ明らかではありませんが、中国では甲骨文字よりも古いとされる文字が江西省の呉城文化や山東省の竜山遺跡の陶片から発見されています。

これらの文字は、日本の神代文字に似ているとされ、また蒼頡が書いたとされる碑文の写しも、中国の人々には読み解けないものの、神代文字に似ていると言われています。

神代文字は、漢字が日本に伝わる以前に存在していたとされる多種多様な文字の総称で、多くの研究者は日本には漢字以前の文字は存在しなかったと考えていますが、飛鳥時代の太安万侶や平安時代の菅原道真、鎌倉時代の源頼朝が書いたとされる神代文字が伊勢神宮に残されていることや、土器や神社の石などに記された古い文字が発見されています。

日本に古い文字がないとされた理由の一つは、神代文字の時代が特定できないことや、「隋書倭国伝」に日本には文字がなかったと記されていたためです。

しかし、「隋書倭国伝」には、倭国には文字がなく、木を刻んだり縄を結んだりするものがあるだけで、百済から仏教の書物が伝わり文字を得たと記されています。

「隋書倭国伝」によると、6世紀半ばまで日本には文字が存在しなかったとされていますが、「木に刻む」「縄を結ぶ」という表現から、異なる種類の文字があった可能性が浮かび上がります。

これは、木に刻まれた刻木文字や、縄目のように結ばれた結縄文字を指しているとも解釈できます。

つまり、漢字は存在しなかったものの、縄目のような形状の文字が使われていたと考えられます。

中国では漢字を文字の基準としていたため、漢字以外の表記方法は文字と認識されていなかったのかもしれません。

結縄文字の具体的な形態は不明ですが、縄文時代の土器に見られる縄目の模様が、何らかの記号や文字としての意味を持っていた可能性があります。

特に、火焔土器などの派手な装飾が施された土器には、一定のパターンがあり、これらは単なるデザインではなく、何らかのメッセージや呪文、文字、記号を伝えるものだったとも考えられます。

このように、漢字が伝来する以前から、日本には既に文字が存在していたと推測されます。

神代文字から甲骨文字へ

 

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では、神代文字がどのようにして甲骨文字へと発展したのでしょうか。

元々、神代文字の多くは、亀の甲羅や獣の骨を焼いて占いに使われていたとされ、そのひび割れの状態を見て、一つずつのパターンに音と意味を当てる一字一音一義の形式であったと考えられます。

神代文字は、現在の日本語の五十音表に当てはまる形で構成されており、占いでは母音と子音が交わる部分の文字の意味から結果を導き出し、時には文字の音をつなげて単語を作り出していたようです。

えば、「う」は「大きい」という意味で、「み」は「水」を意味し、これらを組み合わせると「大きい水」、すなわち「海」という意味になります。

このように、神代文字は個々のパーツとして存在しており、これが甲骨文字の元となったのではないかということです。

中国に伝わり、組み合わせられることで甲骨文字、すなわち漢字が形成されたとされます。実際に、甲骨文字と神代文字には似た文字が多く存在します。

例えば、「み」という文字は、阿比留草文字と甲骨文字の両方に「円」があり、下に尻尾のような形がある文字です。

「む」も、両方に縦に波のように伸びた文字が見られます。

阿比留草文字は、九州対馬の阿比留家に伝わる文字で、全体的に草書体のような崩し字です。

甲骨文字の草書体という説もあり、逆にこれが元になって甲骨文字が形成された可能性もあります。

また、甲骨文字の元になったとされる呉城文字は、神代文字により似ていると言われています。

竜山遺跡で発見された文字が、日本の神代文字である阿比留草文字に基づいて「神さびにし名手ゆ来る」と解読されたことから、甲骨文字の前身として神代文字が存在し、それが組み合わさって甲骨文字が形成されたと考えられます。

また、漢字の創始者である蒼頡が残したとされる碑文は、絵文字のような形状で、読み解くことが難しいとされていましたが、これも神代文字に似ており、日本の学者たちが複数の神代文字を用いて「死後に富むを得」と読み解いた例があります。

この読み解きには、北海道異体文字や豊国文字が用いられました。北海道異体文字は明治時代に北海道で発見された線で構成された文字で、豊国文字、または神宮文字は江戸時代に発見された「上記」に記された絵文字のようなタイプとカタカナに似た2種類の文字です。

これらの文字が甲骨文字のルーツになったという説もあります。

「上記」は、日本の初代天皇である神武天皇以前の歴史を記したもので、中国に農業や文字を伝えたのは日本だと記されています。

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日本から大陸に渡った人達

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一方で、中国の文字を日本語で読み解くことに疑問を持つ人もいるかもしれません。

しかし、約7300年前のアカホヤの大噴火後、南九州で生き残った人々が日本国内や外国へ脱出し、その中には中国に渡った人々もいたと考えられます。

彼らが神代文字を伝え、故郷を思いながら文字を残した可能性があります。

さらに、蒼頡がいた三皇五帝の時代ですが、後に中国で書かれた契丹古伝には、この三皇五帝は倭人、つまり日本人だったとも記されています。

これが事実であれば、蒼頡が日本の神代文字で碑文を残したことも理解できます。

中国の古い文字には日本の神代文字の痕跡が残されており、それが甲骨文字に取り入れられ、漢字に発展したと考えられます。

では、なぜ日本では、元となる記号を持ちながらも、それを組み合わせて豊かな表現を持つ漢字へと発展させなかったのでしょうか。

それは、日本の神代文字が一つの文字に一つの音と意味を持たせる形式だったためです。

各文字は神託の結果として大切に扱われ、文字を漢字のように1文字としてまとめることは考えられていませんでした。

しかし、これらの神代文字を後から知った中国の人々は、一音の持つ重要な意味を理解せず、便利な記号として中国語に合わせて使うことを考えました。

彼らは複数の記号を組み合わせ、使いやすい文字を生み出していったのです。このように、文字の本来の意味を知らずに記号として認識したことから、自在に記号を組み合わせた漢字という文字が生まれたのです。

漢字が中国で公式の文字体系として確立し、公式文書や仏教経典を通じて日本に伝わると、日本人はかつての自国の文字の便利さに改めて気づいたことでしょう。

それまでの日本では、文字を神聖なものとして扱い、各文字の音にこだわり、自由な表現が難しかったのです。

しかし、漢字のように記号を組み合わせた文字体系の登場により、情報を効率的に伝えることが可能になりました。

神代文字には、阿比留草文字や豊国文字など、様々な種類が存在し、その形態も象形文字、線文字、幾何学的な文字、草書体のような文字など多岐にわたります。

その中には、現代にも生き続けている文字、例えばカタカナの元になった文字なども存在します。

豊国文字は、大分県の尾平鉱山の石碑などに残されており、その中にはカタカナに似た文字が多く見られる新文字が含まれています。

実際、カタカナは一般的には漢字の偏から派生したものとされていますが、神代文字、特に豊国文字から派生した可能性も指摘されています。

また、カタカムナ文字は1949年と割と最近に発見されたカタカムナ文献に記されている文字で、円と直線を組み合わせた幾何学的な形が特徴です。

例えば、「ア」は右側の半円の中央に左に突き出た横棒、「イ」は左側の半円で中央に横棒、「ウ」は上半分の半円の中央に下まで伸びる縦棒となっています。

秀真文字、またはヲシテ文字とも呼ばれるものは、ホツマツタヱという文献に記されており、江戸時代に発見されました。

ホツマツタヱは古事記の元になった可能性があるとされ、非常に古い時代の文字であると考えられています。

基本的に、「ア」の段は円、「ウ」の段は三角形といった母音の図形と、「ア」の行は中央に点、「カ」の行は中央に縦棒といった母音と子音の組み合わせで構成されています。

天名地鎮は、直線と点の組み合わせで作られた文字で、ハングルに似ているとも言われます。

江戸時代に広く知られるようになり、九州対馬の神社では占いに使用されていたとされます。

また、島根県の出雲大社近くの石窟で発見された出雲文字や、宮下文書に伝わる絵文字のようなアソヤマ文字など、他にも多くの神代文字が存在したとされています。

昔から存在するとされる神代文字は、現代でもお札やお守り、さらには神社の御朱印に使用されるなど、今も私たちの生活の中に息づいています。

また、カタカナが豊国文字から派生したとの説もあり、現代人もこれらの文字を日々使用していることになります。

このように、漢字は日本の神代文字から派生したとも考えられる日本文化の一部であり、日本人が漢字を取り入れて変化させ、進化させたことは自然な流れかもしれません。

奇跡の日本語

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実際、漢字を基にした日本の文字体系は、奇跡の文字とも呼ばれています。

日本語は漢字、ひらがな、カタカナの3種類の文字を使い分け、漢字は表意文字、ひらがなとカタカナは表音文字として機能します。

この3種類の文字を組み合わせたシステムは、世界的にも珍しいものです。

さらに、漢字には音読みと訓読みが存在し、これは日本語を学ぶ外国人にとっては非常に複雑に映るでしょう。

このユニークな文字体系は、日本人が自らの言葉を文字に表現しようとしてきた結果です。

もともと漢字は中国語を表現するためのものでしたが、日本に逆輸入された際には、日本語に適応させる必要がありました。

そのため、「アイウエオ」を「安以宇衣於」といったように、漢字の1音ずつに当てはめて表記する万葉仮名が生まれました。

しかし、これは現代で言うところの全てひらがなで書くようなもので、文章が不必要に長くなるという問題がありました。

そこで、意味を重視し、読み方を変えるようになりました。

例えば、「House」を英語では「ハウス」と読みますが、日本語では同じ意味の「家」と読むようなものです。幸いにも、漢字は見ただけで意味がわかるものもあり、例えば「衣」は中国語読みで「イ」または「エ」と読まれますが、日本語では服を表す「ころも」と訓読みされました。

このように漢字に訓読みを与え、翻訳するようにしていったのです。

これは既に8世紀の時点で始まっていました。その後、平安時代にはさらに簡略化し、便利にするためにひらがなが誕生しました。

万葉仮名の中から字画が少なく書きやすい漢字を崩したものがひらがなになり、同時にカタカナも生まれました。

漢字、日本起源説に関するまとめ

もともと日本に神代文字が存在したことにより、漢字をスムーズに日本語に置き換えることができたのではないかと推測されます。

当時の日本人にとって、中国語は外国語であったかもしれませんが、日本にルーツを持つ漢字は外国語とは感じられなかったかもしれません。

教科書などでは、古代の文化の多くが大陸から伝わったものとされていますが、漢字のように一つずつ検証していくと、実は伝えられたと思っていた文化も日本発祥のものである例も少なくありません。

文化の源となる文字、すなわち漢字も、日本の文字が中国へ輸出され、そこで組み合わされて漢字として発展し、日本に戻ってきた可能性があります。

漢字は日本人の思いが宿った文字と言えるかもしれません。

今回は、漢字の発祥が中国ではなく日本である可能性や、それが神代文字であることなどを考察しました。

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