百日ぜき、その名前は多くの人にとって「子どもがコンコンと咳き込み、回復に長い時間がかかる病気」というイメージと結びついているかもしれません。しかし、この古くから知られる感染症が、近年再び世界的に、そして日本国内でも注目を集めています。かつては乳幼児の命を脅かす主要な疾患の一つでしたが、ワクチンの普及により患者数は激減しました。にもかかわらず、なぜ今、百日ぜきへの警戒が必要なのでしょうか。それは、ワクチンによる免疫が時間とともに低下すること、そして成人の感染が増加し、診断が遅れることで感染源となってしまうという新たな課題が明らかになってきたからです。
この記事では、百日ぜきの科学的な側面、すなわち原因となる細菌の特徴から、感染経路、年齢によって異なる多様な症状、診断や治療の現状、そして最も効果的な予防策であるワクチンについて、さらに掘り下げて詳しく解説します。加えて、日本における近年の流行状況とその背景にある要因、そして今後の対策についても詳細に考察し、百日ぜきという疾患に対する理解を深めていただくことを目指します。
百日咳菌:その特性と狡猾な感染戦略
百日ぜきの原因菌であるBordetella pertussis(ボルデテラ・パータシス)は、非常に小さく繊細な細菌です。グラム染色では陰性に染まる桿菌(棒状の細菌)であり、運動性はなく、栄養要求性が高いため人工的な培地での培養がやや難しいという性質を持っています。この菌は、ヒトの気道粘膜にのみ感染し、そこで増殖します。菌が産生する様々な毒素が、気道の繊毛上皮細胞を傷つけ、炎症を引き起こし、百日ぜき特有の症状を引き起こします。
百日咳菌の感染力は極めて高いことが知られています。感染者から放出された菌を含む飛沫は、咳やくしゃみによって最大1メートル以上飛散すると言われています。感受性のある人がこれらの飛沫を吸い込むことによる飛沫感染が最も主要な感染経路です。また、感染者が咳やくしゃみを手で覆った後に触ったものなど、菌が付着した物品を介して間接的に口や鼻に触れることによる接触感染の可能性も否定できません。百日咳菌は、宿主であるヒトの体外では長時間生存するのが難しいとされていますが、飛沫が付着した直後の物品などからは感染が起こり得ます。
その感染力の高さを示す指標として、基本再生産数(R0)が挙げられます。百日ぜきのR0は、多くの報告で12から17程度と非常に高い値を示しています。これは、免疫を持たない集団において、一人の感染者から平均して12人から17人に感染が広がる可能性があることを意味します。これは、麻しん(はしか)に匹敵するか、それを上回る感染力の強さであり、百日ぜきがいかに容易に集団内で広がるかを示しています。特に、換気が不十分な閉鎖された空間や、人が密集する場所では、感染リスクが高まります。
百日ぜきの臨床経過:三段階の苦闘
百日ぜきに感染してから症状が現れるまでの潜伏期間は、通常7日から10日程度ですが、短い場合は5日、長い場合は3週間以上になることもあります。潜伏期間中は無症状ですが、この期間の後半から人によっては軽い咳が出始めることもあります。症状が現れてからの病気の経過は、典型的に以下の三つの段階に分けられ、全体として回復までには数週間から数ヶ月という長い時間を要します。
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カタル期(Catarrhal Stage):約1〜2週間 この病期は、風邪の症状と区別がつかないことから「カタル期」と呼ばれます。初期には、くしゃみ、鼻水、軽い咽頭痛、微熱といった一般的な上気道炎の症状が見られます。咳もこの時期から始まりますが、最初は軽く、夜間にやや強くなる程度のことが多いです。しかし、このカタル期こそが、最も感染力が強い期間とされています。気道粘膜で百日咳菌が活発に増殖しており、大量の菌を含む飛沫が排出されているためです。この時期に百日ぜきであると診断されることは稀で、多くの場合、単なる風邪として扱われます。そのため、本人が気づかないうちに、あるいは周囲も百日ぜきだと認識しないまま、多くの人に感染を広げてしまうリスクが非常に高い病期です。症状は次第に咳が目立つようになり、次の痙咳期へと移行していきます。
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痙咳期(Paroxysmal Stage):約2〜3週間 カタル期から移行すると、咳の性質が明らかに変化します。これが百日ぜきに最も特徴的な「痙咳期」です。咳は単なる咳ではなく、発作的に連続して出る「痙咳発作(けいがいほっさ)」となります。短い咳が「コンコンコンコンコン!」と息つく間もなく連続的に続き、顔を真っ赤にしたり、苦悶の表情を浮かべたりします。そして、息をすべて吐ききった後に、大きく息を吸い込む際に、狭くなった声門を空気が通過する際に生じる「ヒュー」という笛のような特徴的な高い音を発します。これが「ウープ(whoop)」と呼ばれる百日ぜきに特徴的な吸気性の笛音です。一連の咳発作は「レプリーゼ(reprise)」とも呼ばれます。この発作は非常に体力を消耗させ、特に小さな子どもでは、咳き込みの勢いで嘔吐してしまうことも少なくありません。発作は1日に数十回起こることもあり、患者は食事や水分摂取もままならなくなることがあります。夜間に発作が起こりやすい傾向があり、睡眠を著しく妨げられます。この病期が、患者にとって最も苦しい期間であり、周囲の不安も大きい時期です。ただし、この典型的なウープは百日ぜき患者の半数程度にしか見られないという報告もあり、特に乳児や成人では見られないことも多い点に注意が必要です。
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回復期(Convalescent Stage):数週間〜数ヶ月 痙咳期の激しい咳の発作が、次第に回数や程度が減ってくる病期です。回復に向かっている兆候ですが、完全に咳がなくなるまでには非常に長い時間を要します。数週間で目立たなくなることもあれば、体力が落ちている時や、ホコリっぽい場所、寒暖差のある場所などで再び発作性の咳が出現するなど、咳が完全に消失するまでに数ヶ月かかることも珍しくありません。この長引く咳が「百日ぜき」という名前の由来となっています。回復期に入ると百日咳菌の排出量は減少し、感染力はほとんどなくなると考えられています。しかし、咳が長期間続くことによる体力低下や、日常生活への影響は無視できません。成人の場合、痙咳期がはっきりせず、最初から回復期のような「長引く咳」として症状が現れることも多く、百日ぜきと診断されないまま経過してしまうケースが見られます。
年齢というフィルターを通した百日ぜきの顔
百日ぜきの症状の現れ方や重症度は、患者の年齢や免疫状態によって大きく異なります。この年齢による違いを理解することは、百日ぜきの早期発見や適切なケアを行う上で非常に重要です。
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生後早期の乳児:最も危険なハイリスクグループ 生後早期の乳児、特に生後6ヶ月未満の赤ちゃんは、百日ぜきに感染した場合に最も重症化しやすく、命に関わる危険性が高い年齢層です。この時期の赤ちゃんは、母親からの抗体の移行が不十分であることや、自身の免疫機能がまだ発達途上であることに加え、百日ぜきワクチンの接種が完了していないため、百日咳菌に対する免疫をほとんど持っていません。乳児の百日ぜきは、典型的なウープを伴う咳発作が見られないことが多く、「多呼吸(呼吸が速くなる)」や「無呼吸発作」が主な症状となることがあります。咳き込みによって顔色が悪くなる(チアノーゼ)、けいれんを起こす、呼吸が停止するといった重篤な状態に陥りやすく、入院による厳重な管理や治療が不可欠です。肺炎や脳症といった重篤な合併症を引き起こす頻度も高く、予後不良となるケースもあります。乳児の百日ぜきは、迅速な診断と集中治療が必要な緊急性の高い疾患として認識する必要があります。
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幼児・小児:ワクチン接種の効果とブレークスルー感染 乳幼児期の定期予防接種(四種混合や五種混合ワクチン)をスケジュール通りに接種している子どもたちは、百日ぜきに感染した場合でも、多くは典型的な症状が出ても比較的軽症で済む傾向があります。これは、ワクチンによってある程度の免疫が獲得されているためです。しかし、ワクチン接種が完了していない子どもや、接種から時間が経過して免疫が弱まっている子ども(ブレークスルー感染)では、典型的な痙咳期の激しい咳症状を呈することがあります。また、ワクチンを接種していても、肺炎などの合併症を起こす可能性はゼロではありません。学童期以降になると、乳幼児期に受けたワクチンの効果が減弱してくるため、再び百日ぜきに感染しやすくなります。
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思春期以降の若者・成人:見過ごされがちな感染源 思春期以降の若者や成人では、乳幼児期にワクチンを接種していても、時間の経過(一般的にワクチン効果は5〜10年程度で減弱すると言われています)とともに百日ぜきに対する免疫が低下していることがほとんどです。そのため、百日ぜきに再び感染する可能性があります。成人の百日ぜきは、乳幼児や小児に見られるような典型的な激しい咳発作やウープを伴わないことが多く、単に「長引く咳」として現れることが一般的です。数週間から数ヶ月にわたって咳が続くものの、全身状態は比較的良好なことも多いため、「風邪が治りきらない」「アレルギーかな」「マイコプラズマかな」などと自己判断されたり、医療機関を受診しても百日ぜきと診断されずに経過したりすることが少なくありません。しかし、症状が軽くても百日咳菌を排出しているため、周囲の人々、特に免疫を持たない乳児に対する重要な感染源となってしまいます。成人の感染増加は、乳児の百日ぜき増加にもつながるため、社会全体の課題となっています。
診断への道のり:症状と検査の組み合わせ
百日ぜきの診断は、特徴的な臨床症状に加えて、病原体やそれに対する免疫反応を検出する検査結果を組み合わせて総合的に行われます。特に乳児や成人のように非典型的な症状を呈する場合は、検査による確定診断がより重要となります。
診断に用いられる主な検査法は以下の通りです。
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PCR法・LAMP法(遺伝子検査): これらの検査は、患者の鼻咽頭拭い液や吸引液などに含まれる百日咳菌のDNAを増幅して検出する方法です。発症早期、特に咳が始まってから1〜3週間以内のカタル期から痙咳期の早期にかけて最も感度が高く、迅速な診断が可能です。培養検査よりも高い検出率が期待できます。ただし、検査ができる施設が限られている場合や、保険適用上の制約がある場合もあります。発症から時間が経過すると菌の量が減少し、検出が難しくなることがあります。
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培養検査: 鼻咽頭の粘液などを専用の培地に塗布し、百日咳菌が増殖するかどうかを確認する検査です。菌を直接分離・同定するため、診断を確定する上で非常に重要な検査とされています。特に、菌株の性質(例:抗菌薬耐性)を調べることも可能です。しかし、百日咳菌は非常に繊細で、患者からの菌の量が少ない場合(例:ワクチン接種者、抗菌薬服用者、発症から時間が経過した患者)は検出が難しいという感度の低さが欠点です。また、結果が出るまでに数日(通常3〜7日)かかるため、早期診断には不向きな面があります。
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血清学的検査(抗体価測定): 百日咳菌に対する抗体が血液中にどの程度存在するか(抗体価)を調べる検査です。百日咳毒素に対するIgG抗体価の測定が一般的です。感染後、抗体が産生されるまでには時間がかかるため、発症から2週間以上経過した後の診断に特に有用です。過去の感染やワクチン接種によっても抗体価は上昇するため、一度の測定だけでなく、病気の経過とともに抗体価が上昇していることを確認する「ペア血清」での診断が望ましいとされています。ただし、検査結果が出るまでに時間がかかることや、ワクチン接種歴によっては結果の解釈が難しい場合があります。
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迅速抗原検出キット: 鼻咽頭拭い液を用いて、百日咳菌に特異的な抗原を検出する検査キットも開発されています。比較的迅速に結果が得られるため、外来での初期診断の補助として有用ですが、PCR法などに比べると感度が劣るとされるため、この検査のみで診断を確定することは難しい場合があります。
これらの検査は、単独ではなく、患者の症状、発症時期、年齢、ワクチン接種歴などを総合的に考慮して、最も適切と考えられる方法が選択されます。
治療の選択肢と課題:抗菌薬と支持療法
百日ぜきの治療の基本は、百日咳菌を排除するための抗菌薬投与です。主にマクロライド系の抗菌薬(エリスロマイシン、クラリスロマイシン、アジスロマイシンなど)が第一選択薬として用いられます。
抗菌薬の投与は、特にカタル期など発症早期に開始するほど効果が高いとされています。早期に治療を開始することで、病原菌を減らし、症状の重症化を防ぎ、周囲への感染力を低下させる効果が期待できます。しかし、痙咳期に入って咳発作が確立してしまった後では、抗菌薬を投与しても咳の発作そのものを劇的に軽減させる効果は限定的であることが多いです。これは、咳の発作が百日咳菌そのものによる直接的な刺激だけでなく、菌が産生する毒素による気道粘膜の損傷や、長期にわたる炎症によって引き起こされる気道の過敏性なども大きく関与しているためと考えられています。この場合でも、抗菌薬は体内の百日咳菌を排除し、感染力をなくすという点では重要な役割を果たします。
百日ぜきの治療における近年大きな課題となっているのが、マクロライド系抗菌薬に対する耐性を持つ百日咳菌の出現です。日本国内でも、マクロライド耐性百日咳菌の報告が増加傾向にあり、これらの菌による感染では、通常のマクロライド療法が効果を示さないため、治療が難航するケースが見られます。このような場合、代替となる抗菌薬(例:ST合剤)の使用が検討されますが、耐性菌の動向を監視し、新たな治療法の開発や検討を進めることが求められています。
抗菌薬治療と並行して、患者の症状を緩和し、回復を支援するための支持療法も非常に重要です。特に乳児で重症な場合や、激しい咳発作による体力消耗や呼吸状態の悪化が見られる場合には、入院管理のもと、以下のような支持療法が行われます。
- 酸素投与: 呼吸困難やチアノーゼが見られる場合に、体内の酸素飽和度を保つために行われます。
- 吸引: 咳き込みによって気道に貯留した痰や分泌物を除去し、呼吸を楽にするために行われます。
- 水分・栄養補給: 咳発作による嘔吐などで十分な水分や栄養が摂取できない場合に、点滴などによって補給します。
- 鎮静剤: 激しい咳発作によって興奮状態にある場合などに、医師の判断で慎重に使用されることがあります。
- 対症療法: 咳止め薬や去痰薬が用いられることもありますが、特に乳児への使用にはリスクも伴うため、慎重な判断が必要です。
重症例では、呼吸管理のために人工呼吸器が必要となる場合もあります。
究極の防御策:百日ぜきワクチンの重要性
百日ぜきの最も効果的で、そして最も重要な予防策はワクチン接種です。ワクチンによって百日咳菌に対する免疫を獲得することで、百日ぜきの発症そのものを予防する、あるいは感染しても軽症で済ませることができます。日本の予防接種制度において、百日ぜきワクチンは乳幼児期の定期接種に含まれており、ジフテリア、破傷風、不活化ポリオとの混合ワクチン(四種混合:DPT-IPV)、またはこれにHibを加えた五種混合ワクチン(DPT-IPV-Hib)として接種が行われています。
現在の日本の標準的な乳幼児期の定期接種スケジュールは以下の通りです。
- 初回接種(3回): 生後2ヶ月になったら、できるだけ早く1回目の接種を受けます。その後、20日以上(標準的には20日から56日)の間隔をおいて、合計3回接種します。生後2ヶ月からの接種開始が推奨されているのは、百日ぜきに最もかかりやすく重症化しやすい生後早期の乳児を、できるだけ早く病気から守るためです。
- 追加接種(1回): 初回接種3回がすべて完了した後、6ヶ月以上(標準的には初回接種終了後6ヶ月から18ヶ月)の間隔をおいて、4回目の接種を受けます。
これらの合計4回の接種を乳幼児期に完了することで、百日ぜきに対する比較的強い免疫を獲得することができます。この免疫は、乳幼児期における百日ぜきの発症や、重篤な合併症の発症を効果的に防ぐ上で非常に重要です。
しかし、百日ぜきワクチンの免疫効果は、残念ながら一生涯続くわけではありません。一般的に、ワクチン接種による免疫は5年から10年程度で徐々に低下していくと言われています。この免疫の減弱が、学童期以降の若者や成人で百日ぜきに再びかかる「ブレークスルー感染」が増加している最大の理由です。
この免疫の減弱に対応し、百日ぜきの流行を抑制するため、日本小児科学会などでは、乳幼児期の定期接種に加え、以下の時期に任意接種として百日ぜきを含むワクチンの追加接種を推奨しています。
- 小学校就学前の1年間(5歳〜6歳頃): 乳幼児期の4回接種から時間が経過し、百日ぜきに対する免疫が低下してくる時期です。就学前の集団生活に入る前に、百日ぜきを含む三種混合ワクチン(DPT)を追加接種することで、自身の発症を防ぎ、学校での流行を防ぐ効果が期待されます。
- 11歳〜12歳頃: 二種混合ワクチン(DT:ジフテリア、破傷風)の定期接種の時期ですが、この時期に百日ぜきを含む三種混合ワクチン(DPT)を任意で選択することも推奨されています。この年齢層も百日ぜきに対する免疫が低下していることが多く、自身の発症予防に加え、将来、乳児の親や祖父母になった際に赤ちゃんへの感染源となるリスクを減らすためにも重要です。
これらの追加接種は、「コクーニング戦略(Cocooning Strategy)」の観点からも重要視されています。コクーニング戦略とは、百日ぜきに罹患すると重症化しやすい乳児を守るために、その赤ちゃんを取り巻く周囲の人々(両親、祖父母、兄弟姉妹、ベビーシッターなど)が百日ぜきワクチンを接種して免疫を獲得し、まるで繭(コクーン)のように赤ちゃんを百日ぜきから守るという考え方です。特に、両親や祖父母が百日ぜきに対する免疫を持たない場合、知らず知らずのうちに赤ちゃんに感染させてしまうリスクが高まります。
海外、特に米国などでは、成人や妊婦に対する百日ぜきを含むワクチンの接種が積極的に推奨されています。妊婦が妊娠後期に百日ぜきワクチンを接種することで、母親が獲得した抗体が胎盤を通じて胎児に移行し、生後早期の赤ちゃんを百日ぜきから守る「移行抗体」の効果が期待できるためです。日本においても、このような成人や妊婦へのワクチン接種の必要性について議論が進められています。
ワクチン接種は、個人の健康を守る最も効果的な手段であると同時に、社会全体の感染症の流行を防ぐ「集団免疫」の維持にも貢献します。定められた時期に確実に定期接種を受け、推奨される追加接種についても、自身の健康状態や周囲の状況(特に乳児との接触機会の有無など)を考慮して積極的に検討することが、百日ぜきから自身と大切な人々を守るために非常に重要です。
日本における近年の百日ぜき流行状況:警戒すべき現状
日本国内における百日ぜきの流行状況は、近年大きく変化しています。2018年1月1日以降、百日ぜきは感染症法に基づく「定点把握感染症」から「全数把握感染症」に変更されました。これにより、すべての診断された患者数が把握されるようになり、特にそれまで十分なデータが得られなかった成人の感染者数も明らかになってきました。
全数把握への変更後、一時的に報告数が増加しましたが、その後は比較的落ち着いた状況が続いていました。しかし、2023年後半頃から再び増加傾向が見られ始め、2024年に入ってからは全国的に急速に患者報告数が増加しています。多くの都道府県で例年を大きく上回るペースで患者が報告されており、一部の地域では過去数年間で最多の報告数を更新するなど、明らかな流行の兆し、あるいは既に流行状態にあると言えます。
この近年の百日ぜき報告数増加の背景には、複数の要因が複合的に関与していると考えられています。
- 集団免疫の低下: 新型コロナウイルス感染症のパンデミック対策として、マスク着用、手洗い、ソーシャルディスタンスといった感染対策が広く実施された結果、百日咳菌を含む様々な呼吸器感染症の流行が一時的に抑制されました。これにより、通常であれば日常生活の中で自然に百日咳菌に曝露し、知らないうちに軽い感染を繰り返すことで免疫が維持されていた層(特に成人)において、その機会が減少し、百日ぜきに対する集団免疫レベルが低下した可能性が指摘されています。感染に対する感受性の高い人が相対的に増加したと考えられます。
- ワクチン効果の減弱と成人の感染増加: 乳幼児期に百日ぜきワクチンを接種していても、時間が経過すると免疫が減弱することは前述の通りです。現在の成人や若者の多くは、乳幼児期に定期接種として百日ぜきワクチンを受けていますが、その効果が持続しておらず、百日咳菌に感染しやすい状態になっています。成人の百日ぜきは症状が非典型的で軽症であることが多いため、百日ぜきと診断されないまま日常生活を送り、周囲(特に免疫を持たない乳児)に感染を広げてしまう「見過ごされた感染源」となっているケースが増加しています。
- マクロライド耐性菌の出現と広がり: 百日ぜきの標準的な治療薬であるマクロライド系抗菌薬に対する耐性を持つ百日咳菌の出現も、流行を長引かせたり拡大させたりする要因として懸念されています。耐性菌による感染では、適切な治療が困難となり、菌の排出期間が長くなる可能性があります。
これらの要因が組み合わさることで、百日ぜきが再び社会的な問題として認識される状況が生まれています。特に、免疫を持たない、あるいは免疫が不十分な乳児が、感染に気づいていない成人などから感染するケースが増加しており、乳児の重症例を防ぐことが喫緊の課題となっています。
百日ぜきと学校保健安全法
百日ぜきは、学校において児童生徒等が集団で生活する場での感染拡大を防ぐため、学校保健安全法で「第二種感染症」に指定されています。これは、飛沫感染によって比較的容易に広がる感染症のうち、学校において流行を広げる可能性が高い疾患が指定される分類です。
百日ぜきと診断された児童生徒等は、学校への出席が制限されます。具体的には、「特有の咳が消失するまで、または5日間の適切な抗菌性物質製剤による治療が終了するまで」は出席停止とされています。この期間は、百日咳菌を周囲に感染させる可能性が高い期間であるため、他の児童生徒への感染を防ぐために自宅などで療養することが求められます。
出席停止期間が終了し、登校が可能となった後も、咳の症状が完全に消失するまでには時間がかかることがあります。しかし、この時期には感染力はほとんどないとされています。学校によっては、本人の体調を考慮しつつ、マスク着用などの咳エチケットを徹底することを推奨される場合があります。学校における百日ぜきの発生は、周囲の児童生徒や教職員への感染拡大を防ぐための迅速な対応が求められます。
まとめ:百日ぜきに対する多角的なアプローチの必要性
百日ぜきは、百日咳菌によって引き起こされる感染力の強い呼吸器感染症であり、特にワクチン未接種または接種不完了の乳児にとっては重篤な合併症を引き起こし、命に関わることもある危険な病気です。特徴的な激しい咳が長く続く症状は患者に大きな苦痛を与え、日常生活にも支障をきたします。
近年、日本国内で百日ぜきの報告数が増加傾向にあり、これは乳幼児期にワクチンを受けていても時間の経過とともに免疫が弱まることや、成人では症状が非典型的で診断が遅れること、そしてコロナ禍における集団免疫の低下などが複合的に影響していると考えられています。
百日ぜきから自身と社会を守るためには、個人の予防努力と公衆衛生活動が連携した多角的なアプローチが必要です。
- 乳幼児期のワクチン接種の徹底: 生後2ヶ月からの定期接種をスケジュール通りに確実に受けることが、乳児を百日ぜきによる重症化から守る上で最も重要です。
- 成人を含む追加接種の検討: 乳幼児期にワクチンを受けている人も、免疫の減弱を考慮し、推奨される時期(小学校就学前、思春期)に追加接種を検討することが重要です。特に、乳児と接する機会が多い成人(両親、祖父母など)は、自身の免疫状態を確認し、コクーニング戦略の観点からも接種を検討するべきです。
- 長引く咳への注意と早期受診: 数週間以上咳が続く場合は、単なる風邪や気管支炎と自己判断せず、百日ぜきの可能性も考えて医療機関を受診しましょう。特に周囲に乳児がいる場合は迅速な対応が求められます。
- 診断された場合の適切な対応: 百日ぜきと診断された場合は、医師の指示に従い、適切に療養し、感染拡大を防ぐための出席停止期間などを守りましょう。
- 百日ぜきに関する知識の普及と啓発: 百日ぜきが子どもだけの病気ではないこと、成人でも感染し感染源となること、ワクチン接種の重要性などについて、広く社会に情報を提供し、理解を深めることが、予防と感染拡大防止につながります。
百日ぜきは、効果的なワクチンが存在するにもかかわらず、今なお私たちにとって身近な感染症であり続けています。近年の流行状況は、百日ぜきに対する継続的な警戒と、全ての年代における予防意識の向上が必要であることを強く示唆しています。自身の健康を守り、そして最も守られるべき存在である赤ちゃんたちを百日ぜきから守るために、一人ひとりが百日ぜきに関する正しい知識を持ち、適切な行動をとることが、今後の流行を抑制し、この病気による犠牲を減らすための鍵となります。百日ぜきは「過去の病気」ではなく、「現在も注意が必要な病気」として、私たち全員が認識しておくべき重要な疾患なのです。