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バイとは何か?定義や歴史などわかりやすく解説!

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バイセクシュアルの定義と基本的な理解

バイセクシュアル(Bisexual)とは、日本語では「両性愛」と訳されることが多く、一般的には「男性と女性の両方に性的、または恋愛的な魅力を感じる人」を指す言葉として知られています。しかし、この定義は時代とともに進化し、より包括的な意味合いを持つようになってきました。単に「男女」という二元論的な性別だけでなく、自分の性別と同じ性別の人、そして異なる性別の人に対して惹かれる可能性があるという、より広い解釈がなされることが増えています。バイセクシュアルというアイデンティティは、決して「男性と女性を均等に愛する」ことだけを意味するのではなく、その惹かれ方のバランスや強さは個人によって大きく異なる非常にグラデーション豊かなセクシュアリティなのです。多くの人が抱く「半分ずつ」というイメージは、実態のごく一部を切り取ったものに過ぎず、実際には流動的で多様なあり方が存在しています。ここでは、まずバイセクシュアルという言葉の根幹にある概念と、それがどのように個人のアイデンティティとして形成されるのかを深掘りしていきます。

性的指向としてのバイセクシュアルの本質

性的指向としてのバイセクシュアルを理解する上で最も重要なのは、それが「二つの性別」に限定されるものではないという現代的な解釈です。かつては「Bi(2つの)」という接頭辞から、男性と女性のみを対象とすると考えられていましたが、現在では「2つ以上の性別(ジェンダー)に惹かれる」という定義が広く受け入れられています。これには、シスジェンダーの男女だけでなく、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々も恋愛や性愛の対象に含まれる可能性があります。また、バイセクシュアルであることは、同時に複数の人と関係を持つことを意味するわけではありません。バイセクシュアルとは「誰に惹かれる可能性があるか」という指向性の話であり、実際に誰と付き合っているか、あるいは過去にどのような経験があるかという行動履歴だけで決定されるものではないのです。たとえ生涯で異性としか付き合ったことがなくても、あるいは同性としか経験がなくても、内面的な指向として両性(または多性)に惹かれる感覚があれば、その人はバイセクシュアルであると言えます。この内面的な「惹かれる可能性」こそが、性的指向の本質なのです。

惹かれ方のグラデーションと流動性

バイセクシュアルの人々の中で、男性と女性(あるいは他のジェンダー)に対する惹かれ方が常に「50対50」であるケースはむしろ稀です。多くの当事者は、その惹かれ方に偏りや時期による変動を持っています。例えば、「女性に対しては情緒的な繋がりを強く求めるが、男性に対しては性的な魅力を感じやすい」といったように、相手の性別によって惹かれる側面が異なる場合もあります。これを専門的には「クロス・オリエンテーション」や「スプリット・アトラクション・モデル」を用いて説明することもありますが、バイセクシュアルという大きな枠組みの中では、このような偏りも自然なこととして受け入れられています。また、惹かれる性別の好みが時期によって変化する現象は「バイ・サイクル(Bi-cycle)」と呼ばれ、ある時期は同性に強く惹かれ、別の時期は異性が気になるといった波を感じる当事者も少なくありません。この流動性ゆえに、自分自身のセクシュアリティに混乱を覚えたり、定まらない自分に不安を感じたりすることもありますが、その揺らぎこそがバイセクシュアルの多様なあり方の一部であり、決して不誠実さや未熟さの表れではないのです。

社会に蔓延する誤解とバイフォビアの実態

バイセクシュアルは、異性愛と同性愛のどちらのコミュニティからも十分な理解を得られないことがあり、独自の偏見に晒されやすい立場にあります。これを「バイフォビア(Bi-phobia)」と呼びます。例えば、異性と付き合っているときは「やっぱり異性愛者だったんだ」と言われ、同性と付き合っているときは「今は同性愛者になったんだ」と判断されてしまう現象は、「バイ・イレイジャー(バイセクシュアルの不可視化)」として問題視されています。社会は人間関係を「異性愛」か「同性愛」のどちらかの箱に分類したがる傾向があり、その中間や両方にまたがる存在を「なかったこと」にしてしまうのです。バイセクシュアルの当事者が直面する困難の多くは、自身のセクシュアリティそのものによる悩みよりも、周囲からの「どっちつかずだ」という決めつけや、存在を透明化されてしまう社会的圧力に起因しています。ここでは、具体的にどのような誤解が当事者を苦しめているのかを詳述します。

「ただの通過点や混乱」という根強い偏見

最も頻繁に見られる誤解の一つが、バイセクシュアルを「本当のセクシュアリティ(同性愛か異性愛)に気づくまでの過渡期」や「混乱している時期」とみなす見方です。「今は遊んでいるだけ」「まだ決心がつかないだけ」といった言葉を投げかけられることがありますが、これはバイセクシュアルという独立したアイデンティティを否定するものです。確かに、自分を探求する過程で一時的にバイセクシュアルと自認する人もいますが、多くの人にとってバイセクシュアルは一生続く確固たる指向です。バイセクシュアルを「優柔不断」や「未成熟」と結びつけることは、その人が誰を愛するかという深い感情の動きを軽視することに他ならず、当事者の自尊心を深く傷つける原因となります。「いつかどちらかに決める必要がある」という社会的な圧力は、バイセクシュアルの人々に対して、今の自分のありのままの状態では不十分であるというメッセージを送り続けてしまいますが、愛する対象を性別で限定しないことは、混乱ではなく一つの完成された愛の形なのです。

浮気性や性的に奔放であるというステレオタイプ

バイセクシュアルに対する非常に有害なステレオタイプとして、「浮気性である」「性的に乱れている」「一人のパートナーでは満足できない」というものがあります。これは「対象となる性別が多い=パートナーの数も多い」という短絡的な誤認から生じています。しかし、性的指向(誰に惹かれるか)と、誠実さや貞操観念(パートナーとどう向き合うか)は全く別の問題です。バイセクシュアルの人は、異性愛者や同性愛者と同様に、一対一の誠実な関係(モノガミー)を築く人もいれば、複数のパートナーとの合意ある関係(ポリアモリー)を望む人もいます。それは個人の恋愛観や倫理観によるものであり、バイセクシュアルであること自体が浮気の原因になることはありません。「バイセクシュアルと付き合うと、異性とも同性とも浮気されるリスクが2倍になる」といった心ないジョークや懸念は、当事者を不当に傷つけるだけでなく、信頼関係を築く上での大きな障壁となってしまいます。このような偏見は、映画やドラマなどのメディアで、バイセクシュアルのキャラクターがしばしば裏切り者や性的に貪欲な人物として描かれてきた歴史的背景も影響しており、正しい理解へのアップデートが急務とされています。

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類似するセクシュアリティとの比較と境界線

近年、セクシュアリティを表す言葉は細分化され、より個人の感覚にフィットする表現が増えてきました。その中で、バイセクシュアルと非常に近い概念を持つセクシュアリティがいくつか存在し、その違いについて混乱が生じることがあります。特に「パンセクシュアル(全性愛)」や「ポリセクシュアル」といった言葉との境界線は、当事者の間でも定義が議論されることがあり、明確な線引きが難しい場合もあります。しかし、言葉の定義を知ることは、相手のアイデンティティを尊重する上で非常に役立ちます。重要なのは、これらのラベルが他者を分類するための箱ではなく、個人が自分の感覚を社会に説明するために選び取った「自己表現のツール」であるという点です。ある人が自分を「バイ」と呼ぶか「パン」と呼ぶかは、その言葉が持つ歴史的背景やコミュニティへの帰属意識、そして個人の主観的なニュアンスへのこだわりによって決められることが多いのです。

パンセクシュアル(全性愛)との微細な違い

バイセクシュアルと最も混同されやすいのがパンセクシュアルです。一般的にパンセクシュアルは「相手の性別やジェンダーに関わらず、すべての人に惹かれる可能性がある」と定義され、しばしば「ジェンダー・ブラインド(性別を意識しない)」であると説明されます。彼らにとって、相手が男であるか女であるか、あるいはノンバイナリーであるかは、魅力を感じる条件として重要ではありません。一方で、バイセクシュアルは「2つ以上の性別に惹かれる」と定義されますが、これは「性別を認識した上で、それぞれの性別に異なる魅力を感じる」というニュアンスを含むことが多いです。つまり、パンセクシュアルが「性別なんて関係ない、その人自身が好き」というスタンスであるのに対し、バイセクシュアルは「男性のこういうところが好き、女性のこういうところも好き」というように、相手のジェンダーが魅力の一部として機能している場合があるという違いがあります。ただし、現代のバイセクシュアルの定義は拡張されており、パンセクシュアルと同じ意味でバイセクシュアルを自称する人も多いため、本人がどちらの言葉に居心地の良さを感じているかが最も尊重されるべき点です。

ポリセクシュアルやオムニセクシュアルとの関係

さらに細分化された概念として、ポリセクシュアルやオムニセクシュアルがあります。ポリセクシュアルは「複数の性別に惹かれるが、全ての性別ではない」という指向を指します。例えば、「男性とノンバイナリーは好きだが、女性は恋愛対象ではない」といったケースです。これは「2つ以上」という意味ではバイセクシュアルの傘下に入りますが、より限定的な範囲を示したい場合に用いられます。一方、オムニセクシュアルはパンセクシュアルと同様に「全ての性別に惹かれる」とされますが、パンセクシュアルとの違いは「性別を認識している」点にあります。オムニセクシュアルは、相手の性別を明確に認識し、その性別ごとの違いを楽しんだり魅力に感じたりした上で、全性別が対象になるというニュアンスが含まれます。このように言葉は増え続けていますが、多くの当事者は厳密な辞書的定義よりも、「バイセクシュアル」という言葉の知名度の高さや、長年使われてきたコミュニティの歴史への敬意から、あえて広義の「バイ」を名乗り続けることもあり、ラベルの選択は個人の戦略的かつ心情的な判断に委ねられています。

バイセクシュアルの歴史とコミュニティの歩み

バイセクシュアルの歴史は、LGBTQ+運動全体の歴史と深く絡み合いながらも、独自の苦難の道を歩んできました。1960年代から70年代にかけての性革命やストーンウォールの反乱において、多くのバイセクシュアル活動家が最前線で戦っていましたが、その貢献はしばしば「ゲイ」や「レズビアン」の功績として語られ、バイセクシュアルとしての存在は後景に追いやられがちでした。歴史的に見ても、バイセクシュアルは異性愛社会からは「変態的」とされ、同性愛社会からは「裏切り者」や「スパイ」のように扱われるという、二重の疎外を経験してきました。しかし、そのような逆境の中で、バイセクシュアル独自のコミュニティが形成され、可視化を求める運動が展開されてきました。「私たちはここにいる」と声を上げ続けることは、二元論的な性愛観に疑問を投げかけ、セクシュアリティの多様性を真の意味で社会に認めさせるための重要な闘争だったのです。

LGBTQ+運動内での摩擦と連帯の歴史

LGBTQ+という言葉が定着する以前、コミュニティ内ではバイセクシュアルに対する強い風当たりが存在しました。特にレズビアン・フェミニズムの一部では、男性とも関係を持つバイセクシュアル女性を「家父長制に加担している」「男性特権を捨てきれていない」と批判する動きがあり、レズビアン・コミュニティから排除されることもありました。同様にゲイ男性のコミュニティでも、バイセクシュアル男性は「ゲイであることを隠すために異性愛を装っている」とみなされ、真の仲間として受け入れられない時期がありました。このような「コミュニティ内での差別」は、当事者に深い孤独感を与えました。しかし、90年代以降、HIV/AIDS危機の共有や、クィア理論の発展に伴い、セクシュアリティの流動性が理解され始めると、バイセクシュアルの存在は多様性の象徴として再評価され始めました。現在では、LGBTQ+の連帯においてバイセクシュアルは欠かせない一部であり、かつての摩擦を乗り越え、異なる指向を持つ人々が互いの権利のために共に戦うための架け橋としての役割を担うようになっています。

バイセクシュアル・プライドフラッグに込められた意味

1998年、マイケル・ペイジによってデザインされた「バイセクシュアル・プライドフラッグ」は、コミュニティの可視化を象徴する重要なアイコンです。この旗は上から、ピンク、紫、青の3色のストライプで構成されています。それぞれの色には深い意味が込められています。一番上のピンク色は「同性への性的魅力」を表し、一番下の青色は「異性への性的魅力」を表しています。そして、中央の紫色は「ピンクと青の融合」、つまり同性と異性の両方へ惹かれることを象徴しています。この紫色の帯は、ピンクと青の間に溶け込むように配置されており、バイセクシュアルの人々がゲイ・レズビアンコミュニティと異性愛社会の両方に気づかれないまま溶け込んでしまいがちである現状を示唆しつつ、その中で独自のアイデンティティを確立することの重要性を表現しています。このフラッグを掲げることは、社会の中で不可視化されやすい「B」の存在を高らかに宣言し、世界中のバイセクシュアル当事者に向けて「あなたは一人ではない」という連帯のメッセージを送る行為でもあるのです。

自己受容への道のりとカミングアウト

バイセクシュアルであると自認し、それを受け入れるプロセスは、単一の性に惹かれる人々とは異なる独特の葛藤を伴います。異性愛者として生きることも可能であり、同性愛者として生きることも(部分的には)可能であるため、「自分は何者なのか」という問いに対する答えが定まりにくいのです。この「どちらの側にも完全には属していない」という感覚は、アイデンティティの確立を遅らせる要因になります。また、社会からの「バイセクシュアルは存在しない」「ただのワガママ」といった否定的なメッセージを内面化してしまい、自分自身を否定してしまう「内在化されたバイフォビア」に苦しむ人も少なくありません。自己受容とは、社会の枠組みに自分を当てはめることではなく、自分の中に存在する「揺らぎ」や「広がり」を、そのままで完全なものとして愛せるようになるまでの長い旅路のことを指します。

「自分は偽物ではないか」というインポスター症候群

多くのバイセクシュアル当事者が経験するのが、「自分は十分なLGBTQ+ではないのではないか」という不安、いわゆるインポスター症候群(詐欺師症候群)です。例えば、異性のパートナーと長期的な関係を築いているバイセクシュアルの人は、「見た目は異性愛者」として社会特権(異性愛特権)を享受していると感じ、クィア・コミュニティに参加することに罪悪感を抱くことがあります。逆に、同性と付き合っているときは、「異性にも惹かれる自分は、純粋な同性愛者のコミュニティに嘘をついているのではないか」と感じてしまうのです。この「どこにいてもアウェイ」な感覚は、自己肯定感を著しく低下させます。特に、まだ性的経験が少ない若い世代では、「両方と付き合ったことがないのにバイと名乗っていいのか」という証明への強迫観念に駆られることもあります。しかし、性的指向は経験の有無で決まるものではなく、自分の心がどう感じるかが全てです。「自分は偽物かもしれない」という葛藤そのものが、真摯に自分のセクシュアリティと向き合っている証拠であり、多くのバイセクシュアルが共有する普遍的な経験であることを知るだけで、心は救われることがあります。

カミングアウトの複雑さとタイミングの難しさ

バイセクシュアルのカミングアウトは、一度きりで終わるものではなく、生涯を通じて何度も繰り返される複雑なプロセスです。新しいパートナーができるたびに、あるいは新しいコミュニティに入るたびに、誤解を解くための説明が必要になるからです。異性のパートナーを紹介すれば「異性愛者」と思われ、同性を紹介すれば「同性愛者」と思われるため、あえて「私はバイセクシュアルだ」と宣言しなければ、アイデンティティが消されてしまいます。しかし、カミングアウトにはリスクも伴います。「じゃあ3人で遊ぼうよ」といったセクハラ的な反応や、「どっちの方がよかった?」というデリカシーのない質問を受けることも多々あります。また、現在のパートナーに対してカミングアウトする場合、「今の相手では満足できないのか」という不安を抱かせないような配慮が必要になることもあり、心理的な負担は大きいです。カミングアウトは義務ではありません。自分の安全と心の平穏が最優先されるべきであり、言わない選択もまた、自分を守るための立派な決断です。それでも伝えることを選ぶのは、大切な人に自分の全てを知ってほしいという信頼の証であり、その勇気は尊重されるべきものです。

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メンタルヘルスと社会的な課題

近年、各国の調査でバイセクシュアルの人々のメンタルヘルスリスクが、異性愛者はもちろん、ゲイやレズビアンと比べても高い傾向にあることが明らかになっています。うつ病、不安障害、自殺念慮などの割合が高い背景には、前述した「バイ・イレイジャー(不可視化)」と「二重の疎外」が大きく関わっています。コミュニティという安全基地を持ちにくいことは、精神的な孤立を深める主要因となります。また、バイセクシュアル女性に対するDV(ドメスティック・バイオレンス)や性暴力の被害率が高いという統計もあり、これは「バイセクシュアル女性は性的に奔放で、何をしてもいい対象」という社会的な蔑視や性的対象化が根底にあると指摘されています。ここでは、バイセクシュアルが直面する構造的な生きづらさと、具体的な環境における課題について解説します。

ダブルマイノリティとしての孤独とストレス

バイセクシュアルは「ダブルマイノリティ」のような側面を持ちます。マジョリティである異性愛社会に馴染めないだけでなく、マイノリティであるはずの性的少数者コミュニティの中でもマイノリティになり得るからです。居場所がないという感覚は、慢性的なストレスとなり、自己価値を侵食します。例えば、同性愛者の友人に恋愛相談をした際に「異性とも付き合えるんだから、そっちに行けばいいじゃん(苦労して同性と付き合う必要ないじゃん)」と言われてしまうような、悪気のない排除の言葉に傷つくことがあります。「楽な方へ逃げられる」という偏見は、バイセクシュアルが抱える「誰を好きになっても偏見に晒される」という現実を無視した残酷なものです。自分と同じような悩みを持つロールモデルや仲間にで出会いにくいことも、孤独感を増幅させます。SNSの普及により当事者同士の繋がりは増えつつありますが、リアルな生活圏内で「私はバイだ」とオープンにしている人はまだ少なく、不可視化されたストレスを一人で抱え込みやすい現状があります。

職場や学校における「見えない存在」としての苦悩

職場や学校では、多くの人が「異性愛者であること」を前提(ヘテロノーマティビティ)に会話が進みます。「彼氏はいるの?」「旦那さんは?」という日常会話の中で、バイセクシュアルの人は常に小さな嘘をつくか、あるいは話を合わせるか、勇気を出して訂正するかという選択を迫られ続けます。また、LGBTQ+への理解を深める研修などが行われても、内容がゲイやレズビアン、トランスジェンダーに偏り、「バイセクシュアル」固有の課題が取り上げられないことも多々あります。これにより「自分の問題は取るに足らないことなんだ」と思い込まされてしまいます。さらに、カミングアウトしたとしても、「男好きなの?女好きなの?どっち?」といった興味本位の質問攻めに遭い、職務とは無関係なセクシュアリティの説明責任を負わされることもあります。このようなマイクロアグレッション(無自覚な攻撃)の積み重ねは、ボディブローのように精神を消耗させます。組織においては、「いないこと」にされている人々の存在を想像し、前提としない言葉選びや制度設計を行うことが、誰もが働きやすく学びやすい環境を作るための第一歩となります。

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アライ(Ally)として共に歩むために

バイセクシュアルの人々が自分らしく生きられる社会を作るためには、当事者自身の努力だけでなく、周囲の人々(アライ)の理解とサポートが不可欠です。アライとは、「同盟」「支援者」を意味し、LGBTQ+当事者ではないけれど、その権利を支持し、差別に対して共に行動する人を指します。バイセクシュアルに対するアライアクションは、特別な活動に参加することだけではありません。日常の会話、何気ない言葉の端々に、その姿勢は表れます。バイセクシュアル特有の「見えにくさ」を理解し、「そこにいる」ことを前提としたコミュニケーションをとるだけで、当事者にとっては大きな救いとなります。ここでは、今日から実践できる具体的なアライとしての行動について提案します。

日常会話で無意識の決めつけを避ける

最も基本的で効果的なアライアクションは、相手のセクシュアリティを現在のパートナーの性別だけで決めつけないことです。女性が男性と歩いているからといって「彼女は異性愛者だ」と断定したり、女性と歩いているから「レズビアンだ」と決めつけたりせず、「彼女は今のパートナーと一緒にいる」という事実だけを受け止める姿勢が大切です。会話の中で「彼氏は?」「彼女は?」と性別を特定する言葉の代わりに、「パートナーは?」「恋人は?」といった中立的な言葉(ジェンダーニュートラルな表現)を使うことも有効です。これにより、バイセクシュアルの人が嘘をついたり、説明に窮したりする場面を減らすことができます。また、バイセクシュアルに関する自虐的なジョークや、「どっちもイケてお得だね」といった軽口に対して、一緒に笑うのではなく、「それはステレオタイプだよ」と静かに指摘したり、話題を変えたりすることも重要なサポートです。差別的な空気に同調しないことは、その場にいるかもしれない隠れた当事者を守ることにつながります。

バイセクシュアルの可視化と存在承認

バイセクシュアルの存在を「認める」ことは、彼らの話をジャッジせずに聞くことから始まります。もし誰かからバイセクシュアルだとカミングアウトされたら、「迷ってるだけじゃないの?」や「証明して」といった言葉は飲み込み、「話してくれてありがとう」と受け止めてください。その人の性的指向について根掘り葉掘り聞く必要はありません。ただ、その人がその人であることを尊重するだけで十分です。また、メディアやニュースでLGBTQ+の話題が出た際に、「ゲイやレズビアンだけでなく、バイセクシュアルの人もいるよね」と言葉に出して言及することも、可視化を助ける力強い行動です。「B」の存在を言葉にすることで、不可視化の呪いを解くことができます。アライであることは、完璧な知識を持つことではありません。知らないことがあれば素直に学び、間違えたら謝り、バイセクシュアルの人々が直面している現実に寄り添おうとする継続的な姿勢こそが、信頼関係を築き、より公正で優しい社会を築くための礎となるのです。

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