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チェッカーズの確執とは!解散理由などまとめてみた

チェッカーズ

皆様も報道などを通じてご存じかと思いますが、かつて人気バンド「チェッカーズ」のドラマーとして活躍していた“クロベエ”こと徳永善也さんが、舌がんのために亡くなられました。

その追悼の場において、残る6人のメンバー間の対立が鮮明に露呈したことは、各メディアが取り上げていた事象の一つで、多くの方々の記憶にも新しいでしょう。

私自身は特にチェッカーズの熱狂的なファンだったわけではありませんが、彼らは私が少年時代を過ごしていた頃のテレビスターであり、間違いなく多大な影響力を持つ存在でした。

そのようなグループが、メンバーの死という衝撃的な出来事を経て、彼らの間の確執を公に露わにしてしまったことは、何とも残念に思います。

チェッカーズの確執について感じたこと、彼らの対立について私なりの考えを述べさせていただきます。

よく言われていることですが、彼らの対立の根源はグループの解散にあるという見方が一般的です。

その真偽は定かではありませんが、おそらくその解散は彼らの関係に大きな影響を及ぼしたターニングポイントであったことは疑いようのない事実と思われます。

チェッカーズの確執とは何なのか、解散理由などをまとめています。

チェッカーズの歴史、その確執とは

チェッカーズは、1980年代から90年代初頭にかけて日本で大ブームを巻き起こしたバンドです。

バンドは1980年に結成され、その骨格を作ったのはボーカリストの藤井フミヤと、ギタリストでありリーダーでもあった武内享の二人でした。

彼らはデビュー以前からすでに高い評価を得ていて、1983年にメジャーデビューを果たした後、一躍アイドルとしての地位を確立し、社会現象ともなりました。

バンド名"チェッカーズ"の由来は、その当時海外で人気を博していた多くのバンドが「C」で始まり、「S」で終わる名前を持っていたことから、その流行を追い求め、「CHECKERS」という名前が付けられたそうです。

その独特の名前が注目を集め、彼らの音楽は日本全国で愛されるようになりました。

彼らのサウンドはエネルギッシュでキャッチーで、当時の若者たちの心をつかむのに成功しました。

彼らの曲はラジオで頻繁に流れ、彼らのコンサートはチケットが即完売するほどの人気を誇りました。

このように、チェッカーズは一世を風靡し、その名を日本の音楽史に刻み込みました。

チェッカーズのプロフィールなど補足

チェッカーズは、1980年代から1990年代前半にかけて活動した日本の男性7人組のロックバンドです。

福岡県久留米市で結成され、デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」でした。

メンバーには藤井郁弥(リードボーカル)、武内享(ギター)、高杢禎彦(サイドボーカル)、大土井裕二(ベース)、鶴久政治(サイドボーカル)、徳永善也(ドラムス)、藤井尚之(サックス)がいます。

1970年代後半、久留米はアマチュアバンドが隆盛で、多くのバンドが活動していました。

1980年に郁弥と武内を中心に新たなグループが結成され、1981年にヤマハ・ライトミュージック・コンテストでグランプリを受賞しました。

1983年に上京し、1984年には「涙のリクエスト」が大ヒット。その後も多くのヒット曲を生み出し、社会現象となりました。

しかし、1992年に解散を発表し、同年の紅白歌合戦を最後に活動を終えました。

チェッカーズの概要まとめ

チェッカーズ (The Checkers)

結成: 1981年

解散: 1992年

メンバー:

藤井フミヤ (ボーカル)
高杢禎彦 (ギター)
大土井裕二 (ベース)
徳永善也 (ドラム)
藤井尚之 (キーボード)
竹内まさと (ギター)
鶴久政治 (サックス)

概要:

チェッカーズは1980年代に日本で非常に人気のあった男性アイドルグループで、多くのヒット曲を持っています。
デビューシングル「ギザギザハートの子守唄」は大ヒットとなり、彼らの名を一躍有名にしました。
チェッカーズはそのキャッチーなメロディとエネルギッシュなパフォーマンスで知られ、多くのファンを魅了しました。
1992年に解散するまでの間に、多くのシングル、アルバムをリリースし、数々の音楽賞を受賞しました。

特徴:

チェッカーズは、その時代のアイドルとしては珍しく、自らの楽曲の作詞・作曲を手掛けることが多かった。
メンバー同士の絆が強く、グループとしての一体感が非常に高かったと言われています。
その一方で、後年になってからは、メンバー間の確執や不仲の噂も浮上してきました。

解散後:

解散後、各メンバーはソロ活動や他の音楽プロジェクトに参加しました。
特に藤井フミヤはソロアーティストとして成功を収め、多くのヒット曲を生み出しています。
このように、チェッカーズは1980年代の日本の音楽シーンにおいて、非常に影響力のあるグループでした。彼らの楽曲やパフォーマンスは、今でも多くの人々に愛され続けています。

 

高杢派の存在

そして、この確執を一層深刻化させたのが、昨年、メンバーの一員である高杢禎彦が出版したガンとの闘病をつづった告白本とされています。

その内容は、彼がガンと闘いながら過ごした日々を中心に、過去のチェッカーズ時代の出来事やエピソードを織り交ぜた自伝的なものだったと記憶しています。

しかしながら、その過去のエピソードの中には、ある意味で暴露本にも似た部分も存在し、確執ともとれる他のメンバーに対して否定的な描写も見受けられました。

この部分がメンバー間の溝をさらに広げた一因となったのは容易に想像できます。

この対立によって、メンバーはどのような陣営に分裂したのでしょうか。

それは、藤井フミヤとその弟の尚之、リーダーの竹内亨、大土井裕二(ここでは便宜上「フミヤ派」と呼称します)の一派と、高杢禎彦と鶴久政治(これを「高杢派」とします)の二人に分かれた形となりました。

"フミヤ派"のメンバーたちは、クロベエの追悼式の発起人となったのですが、"高杢派"の二人は発起人となることを"フミヤ派"から拒まれたのです。

元メンバーの追悼の場でさえも、こういった明らかな軋轢が生じるという事態は、2つのグループ間にはかなり深刻な亀裂が生じていると考えるのが自然と言えるでしょう。

高杢とフミヤは幼なじみという関係

私はこの深刻な対立の根源が、高杢とフミヤの幼少期の関係性にあると考えています。

以下の話は私の仮説に過ぎませんので、その点をご理解いただいた上でお読みいただければと思います。

高杢の告白本によれば、彼は幼稚園時代から体格が良く、一種のリーダーシップを発揮していたようです。

つまり、彼は物理的な力を使って他の子供たちをコントロールできる存在だったわけです。

また、彼は中学生の頃には不良グループのリーダーまで上り詰めていたそうなので、相当な力を持っていたと推測できます。

一方、フミヤは体格が小さく(彼の大人時代の体型を見れば容易に想像できます)、比較的穏やかな子供だったとされています。

しかし、この二人は幼馴染という事で、幼少期を通じてずっと一緒に過ごしていたというのです。

一方は中学生の時の番長、もう一方は比較的大人しい小柄な子供。当時の力関係は予想するのは難しくありません。

まさに「ジャイアン」と「スネ夫」の関係そのものだったかもしれません。

高杢はフミヤをある種の弟分と見なしていた可能性がありますし、フミヤは体格も力もある高杢を恐れていたと考えるのが自然です。

たとえ二人が平等に付き合っているように見えたとしても、フミヤの方から見れば、その基底には恐怖感が流れていた可能性があります。

つまり、彼らの子供時代の関係性では、高杢が主導権を握っていたと推察されます。

高杢自身はフミヤを恐れさせる意図はなかったかもしれませんが、フミヤにとって高杢は恐ろしい番長でした。

ここで、二人の認識のギャップが生まれます。高杢が想像する以上に、フミヤは彼を怖がっていたのかもしれません。

 

力関係の逆転が確執の核か

しかし、彼らが高校生になり、自身のバンドを結成すると、力関係は逆転し始めます

歌唱力と魅力でボーカリストのフミヤが人気者に浮上し、彼と高杢との間には明らかなギャップが生じました。

バンドとしてのメジャーデビュー後も、その差は埋まるどころか、むしろ広がり続けました。

率直に言って、その当時のバンドの人気は、フミヤの人気が支えている、というのが明らかでした。

その状況下で、フミヤの心情はどうだったでしょうか。彼自身の才能と人気が明らかに高杢を上回ることを自覚しました。

幼少期には怖さで一杯だった高杢に対する恐怖感は、自分への人気が集中するにつれて薄れていったでしょう。

彼らが大人になり、腕力で相手を服従させるという要素が薄れるにつれ、それを恐れる必要性も減少しました。

このような状況下で、フミヤにとっては、昔のフミヤが臆病だったというような話をする可能性がある高杢は、正直なところ、厄介だったかもしれません。

昔の優越感を振りかざし、自分を盾にステイタスを上げるような(そう見える)言動や行動があるほど、高杢に対する嫌悪感は増していったことでしょう。

逆に、高杢自身は、人気に関してはフミヤに及ばないことを理解していたでしょう。

しかし、彼が認識しているフミヤは、幼少期からのイメージがそのまま残っているので、フミヤの心情が上記のように変化していたとしても、それに気づくのは難しかったかもしれません。

高杢にとって、フミヤはまだ弟分であり、その認識は、本人が否定したとしても、根深く存在していたのではないでしょうか。

その態度や言葉遣いが、高杢自身が自覚できない間に出てしまうことがあったかもしれません。

その行為が、フミヤにとってストレスの一因となり、高杢が認識していない間に、フミヤが不快感を感じていた可能性があります。

こうした意識のズレが大きかったと思います。

しかし、もしこのような状況が存在していたとしても、高杢を非難するのは少し厳しいかもしれません。彼自身には悪気がなかったのですから。

高杢がその告白本で、自身の体験を真剣に公にしたか、または金銭的な目的があったのか、それは定かではありません。

しかし、どんなに美辞麗句を並べたとしても、人間ですから、お金を稼ぐのは当然で、恐らくその比率は7:3くらいだったのではないでしょうか。

私は彼が誠実な人間だと思います。告白本に書かれた内容は、彼が記憶する過去に対する真実の感情でしょう。

高杢側の目線

彼がフミヤから「チェッカーズを解散する」と単独で通告された(と彼は感じていた)時、バンドメンバーの中で最も激怒したのは高杢だったようです。

それは理解できます。フミヤの人気に依存していたチェッカーズが解散すれば、その後の彼らの運命は大方予見できたでしょう。

それはまるでサザンオールスターズの桑田圭佑や、ミスチルの桜井和寿が突如「バンドを解散しよう」と言い出すような事態だったのです。

特に高杢は自分自身がフミヤと精神的に対等(あるいはそれ以上)だと感じていたので、「ちょっと待って、これは何だ?」と反発するのは自然な反応でしょう。

しかし、フミヤにとっては、その高杢との幼馴染の親しさがうっとうしく感じられたのかもしれません。

さらに彼にはソロ活動で成功する自信がありました。だからこそ、高杢からの非難に対しても、昔のように恐れる必要はなかったのです。

これがきっかけで、フミヤ派と高杢派、あるいは正確にはフミヤと高杢の間に生じた亀裂は深まったと私は考えています。

とはいえ、この一連の出来事は、2人の間に生まれた不協和音を浮き彫りにしただけで、それらはすでに存在していた可能性が高いです。

フミヤと高杢の間には、もともと解消が難しい緊張が存在したのかもしれません。

高杢はフミヤとの対等な関係性を保ちたかった一方で、フミヤは自身の成功と独立性に自信を持ち、高杢からの制約を感じていた可能性があります。

この緊張関係は、最終的にはバンドの解散につながり、その後の両者の道を決定することとなったのです。

チェッカーズは1992年に解散

チェッカーズは1992年の秋に衝撃的な解散のニュースを発表し、その後すぐに公式に解散を確認しました。

同年12月、彼らは感動的なラストツアーを開催し、年末のNHK紅白歌合戦に出演した後に正式に解散しました。

彼らの解散の理由については、その年の12月に出演した「ミュージックステーション」で、メンバーが「道が変ってきた」と述べ、個々のメンバーが自身のキャリアパスを追求するという意味を含んだコメントを残しました。

これは、バンドのメンバー全員が同じ方向を見ていないことを示しており、その発言が注目を集めました。

さらに詳細を言えば、この解散報道はファンや音楽業界にとって大きな衝撃を与えました。彼らは一世を風靡していたので、その活動停止は多くの人々に対して大きな悲しみをもたらしました。

しかし、同時に、彼らのアーティストとしての成長と、新たな可能性を追求する勇気に対する敬意も示されました。

それぞれがソロ活動や音楽以外の道を探求することで、彼らの音楽に対する情熱と才能はさらに広がりを見せ、それぞれが異なる形で引き続き音楽界で活動していくこととなりました。

チェッカーズの確執のまとめ

メンバーの死と確執

元チェッカーズのドラマー、徳永善也さん(通称“クロベエ”)が舌ガンで亡くなった際、その送る会で残った6人のメンバー間の確執が明らかになりました。

特に、グループの解散が確執の発端とされています。

高杢の告白本

高杢禎彦が出版したガン体験告白本が確執をさらに深めた要因とされています。

この本には、チェッカーズ時代のエピソードが含まれており、一部は暴露本のような内容となっていました。

特に、他のメンバーを悪く書いている部分があったため、これがメンバー間の亀裂を拡げたとされています。

メンバー間のグループ分け

確執により、メンバーは大きく2つのグループに分かれました。藤井フミヤ、その弟の尚之、竹内亨、大土井裕二を「フミヤ派」とし、高杢禎彦と鶴久政治を「高杢派」としています。

特に、クロベエの送る会の発起人として「フミヤ派」が選ばれ、「高杢派」の二人は発起人から外されたことが、確執の深さを示しています。

幼少期の関係性

高杢とフミヤは幼稚園からの幼なじみであり、その関係性が確執の背景にあるとされています。

高杢は幼少時代に体が大きく、力で周りを支配していたと言われています。

一方、フミヤは体が小さく、大人しい性格だったとされています。この力関係が、後の確執の原因となった可能性が指摘されています。

フミヤの出世

高校に進学し、バンド活動を始めると、フミヤの人気が急上昇しました。

特に、チェッカーズとしてのデビュー後、フミヤの人気は高杢を大きく上回りました。この人気の差が、二人の関係に亀裂を生んだとされています。

 

チェッカーズとして一世を風靡したフミヤと高杢の間には、その成長と成功の中で様々な確執が存在していました。

幼い頃からの友情に始まり、一緒にバンドを組んで人気者となったフミヤと高杢ですが、その関係性は次第に変化していきました。

特にフミヤの出世が顕著となると、それまでのパワーバランスが崩れ、彼の成功が高杢の影をより大きくしてしまう結果となりました。

これはフミヤに対する高杢の見方が、彼らの幼少期からの関係性に基づいていたためです。

高杢にとってフミヤは、常に自分の舎弟、弟分であったので、フミヤの急速な出世とその後の彼のステータスの上昇を受け入れるのは困難でした。

一方、フミヤは自身の成功と人気を確認し、その結果高杢への恐怖心を失っていきました。

彼にとって、過去のフミヤを振り返る高杢は、昔の自分を持ち出して自身のステータスを保つような存在に映ったかもしれません。

その結果、二人の間には大きな溝が生まれ、互いの間には理解しきれない部分が残ることとなりました。

彼らの間のこの微妙な関係性は、結局、チェッカーズというバンドの解散につながりました。

フミヤが解散を提案したとき、高杢はフミヤに対して強い憤りを感じたと言われています。

しかし、フミヤにとっては、ソロで成功を収める自信があったため、高杢の反対意見に恐れることはなかったのです。

彼らの間のこの確執は、チェッカーズの解散の背後にある深い理由を明らかにしています。二人の間の深い溝が、バンドの結束を解く一因となったのでしょう。

それでも、彼らはその後もそれぞれの道を歩み、音楽に対する熱意を持ち続けています。

チェッカーズの確執は、メンバー間の過去の関係や出来事、そして個々の出世や成功によって複雑に絡み合っています。

特に、高杢とフミヤの関係は、幼少期からの友情と、大人になった後の競争とが交錯しており、その確執の背景には多くの要因が影響していることが伺えます。

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