日本が植民地化されなかった歴史は、外国人にとっても驚きの事実です。
アジアで植民地支配を受けなかったのは日本とタイだけで、これには何か共通点があるのかもしれません。
この記事では、日本だけ植民地にならなかったのかに焦点をあて、お伝えしていきたいと思います。
日本が植民地にならなかった理由は「日本が強かったから」なのかを考察します。
第二次世界大戦後も植民地を逃れた日本
第二次世界大戦後に連合軍による占領を経験したとはいえ、植民地と占領は全く異なる状況です。
日本は分割統治されることなく、植民地支配の危機を免れてきました。
分割統治とは、支配を容易にするために、統治者を分割する手法のことです。
日本はどんな困難も乗り越えられる国であると言えるでしょう。
それでは、なぜ日本が欧米の強国からの圧力に屈せずに独立を保てたのか。
歴史を振り返れば、国家、民族、宗 教、イデオロギーなど様々な理由で人類は争い、多くの悲劇を生んできました。
特に欧米による植民地支配はその典型で、アジアの多くの国々が長い間、植民地として支配されていました。
ベトナム人の学生が感じたこと
例えばベトナムは約100年間フランスの支配下にありましたが、独立したのは第二次世界大戦中、日本軍がフランス軍を追い出した後のことです。
この歴史的背景から、ベトナムでは日本を好む人が多く、大学で日本語を学ぶ学生も多いと聞きます。
日本に対する好意は今も変わらず、そのため日本に来るベトナム人も多いのではないでしょうか。
あるベトナム人学生が、なぜ日本が植民地にならなかったのか疑問に思いました。
アニメ好きの彼は、19世紀の日本を描いた「るろうに剣心」の世界を観ながら思ったそうです。
侍や日本刀が日常的な風景から40年後の1904年には、当時世界最強とされたロシアに勝利しています。
この事実は、彼にとって信じがたいものでした。
そこで、彼は歴史を専門とする教授に理由を尋ねたそうです。
教授は、欧米の科学技術を取り入れたからという理由だけでは説明がつかないと述べました。
なぜなら、同じことをしていた中国も植民地になったからです。
アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけです。
では、なぜタイが植民地にならなかったのかというと、教授によると、フランスとイギリスに挟まれた干渉地帯としての役割を果たし、勢力圏を奪われたり不平等条約を結ばされたりはしましたが、植民地にはならなかったとのことです。
しかし、日本はそのような緩衝地帯としてではなく、領土を奪われることなく、また不平等条約も結ばされていなかったのです。
アジアやアフリカなど歴史を知らない人も多く、日本人は外国でよくこれらの人から、日本はどこの国の植民地だったのと聞いてくる人がいます。
自分の国がどこの国の植民地だったかを話のネタとしてもってくる人は意外に多く、日本は植民地になったことはないよというと大抵目を丸くして驚かれます。
それぐらい欧米に屈しなかった過去を持つ国は珍しいということです。
アメリカからするとロシアに対しての緩衝地帯と捉えることもできるようですね。
元寇もはねのけた日本
日本は日米修好通商条約を結んでいましたが、これを不平等条約と見なす人もいます。
しかし、他国と比較すると、その不平等さは全く異なります。
たとえば、関税率は中国の5%やインドの2.5%に対して、日本は20%と認められていました。
さらに、条約の第2条では、日本と欧米諸国との間で問題が生じた場合は、アメリカ大統領が仲裁すると定められていました。
これは、関税率に加えて大統領が仲裁するという、日本にとってかなり有利な条件でした。
さらに、領事裁判権を承認しましたが、これも日本にとっては問題のないものでした。
領事裁判権とは、在留外国人が犯した犯罪について、その本国の法律に基づいて裁判を行う権利のことです。
つまり、日本に滞在している外国人を、その国の法律で裁くことができるわけですね。
では、日本とベトナムの決定的な違いは何でしょうか。実は、19世紀にさかのぼると、日本とベトナムは似たような歴史を持っています。
15世紀の明の時代には、南下した明によってベトナムが支配されました。
そして、同じ時代に日本もモンゴル帝国の侵攻を受けていました。
13世紀には、元による侵攻が二度にわたって行われ、特に2回目の攻撃は非常に激しく、日本に向かった艦隊は当時としては世界最大級でした。
動員された軍船は4,400隻以上、総兵力は16万人に上りましたが、この強大な戦力でも日本を打ち破ることはできませんでした。
日本の戦い方は、武将が名乗りを上げて戦う一騎打ちが主流でしたが、元は集団戦法を採用していたため、日本の武器や戦い方は時代遅れだったとも言えます。
それでも、事前に準備された防衛陣地と武士たちの奮起により、元を撃退。
台風の影響、神風を強調するのが教科書など左翼勢力の教育のようですが、実際は日本が強かった、以上ということのようですね。
宣教師による植民地工作もなんのその
鉄砲が伝来した時も一年でそれ以上のものを作ってしまい、逆に世界で一番の鉄砲保有国、そして輸出国になってしまったという恐ろしい我々の先祖さまたちです。
ザビエルなどの宣教師という名のスパイの思惑も理解し、警戒をとかずいい塩梅でつきあっていたことも大きいのではないでしょうか。
イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、次のように述べています。
「多くの異なる国の人々と対話してきましたが、日本人ほど素晴らしい発見はありませんでした。キリスト教を信じない民族の中で、日本人を超える者はいません」「多くの人が読み書きができます」「神の法を理解するには非常に都合が良い」と。
また、イエズス会のコスメ・デ・トーレスも「日本人は非常に賢く、スペイン人のように自らを統治する理想的な能力を持っています」「彼らは何でも知りたがるところがあります。世界中を見渡しても、彼らのような民族は他にはいません」と高く評価しています。
ルネサンスが盛期を迎えていたイタリアから来た宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「私たちヨーロッパ人は互いに賢明だと思っていますが、日本人と比べると、非常に野蛮だと感じます。私は毎日、日本人から学ぶことが多いと認めざるを得ません。世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民は他にいないと思います」と語っています。
さらに、日本に対してそれほど好意を持っていなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について言えば、日本人以上に優れた民族を私は知りません」と記しています。
ヨーロッパの上層階級から来たこれらの宣教師たちは知的レベルが高く、彼らが目にした戦国時代の日本は、国としても高い水準にあったのです。
では、宣教師たちは日本の武力をどう評価していたのでしょうか。
ヴァリニャーノがフィリピン総督に宛てた手紙には、「日本の国民は非常に勇敢で、常に軍事訓練を積んでいるため、征服するのは難しい」と記されています。
彼は、日本を軍事力で征服するのは不可能だと見ていましたが、キリスト教を信じる大名を味方につければ、数千人の兵を動員するのは容易であり、スペインからの派遣軍と合わせて約1万人で明を討伐できると提案していました。
彼らは、明が基本的に文人の国であり、戦争を嫌う傾向が強く、国の中枢にいる人々が贅沢を好み戦いを避けるため、1万の軍隊で制圧できると考えていました。
1596年10月、マニラからメキシコに向かっていたスペインの豪華な貨客船サン・フェリーペ号が台風で土佐の浦戸湾に座礁しました。
地元の大名、長宗我部元親はすぐに豊臣秀吉に報告しました。秀吉は積み荷を没収することを決定し、増田長盛を現地に派遣しました。
増田は、スペインが宣教師を先兵として送り込み、侵略の手段として広大な領土を獲得しているという認識を報告しました。
秀吉は、スペインが侵略の意図を持っていると見なし、サン・フェリーペ号の事件をきっかけに、マニラ総督が派遣したフランシスコ会の宣教師や信徒26人を磔刑にしました。
スペインが秀吉に対して武力で報復しなかったのは、日本の軍事力が強力だったからです。
識字率など日本人のレベルが高かった
近現代に限らず、日本が植民地にならなかったのは常に大国で強かったからだと思います。
日本は識字率が非常に高く、庶民の女性や子供でも読み書きができました。
これはロンドンやパリでは考えられないことでした。高い識字率が、他国から支配されない理由とどのような関係があるのでしょうか。
政府が重要な情報を市民に広め、市民がそれを理解できることは、近代国家にとって非常に重要です。戦いは単に軍隊だけのものではなく、国民全体で行うものです。
そうでなければ、国民全員を兵士にする国には敵わないからです。
この意味で、国民への教育は軍事力の基本であり、近代国家の基本と言えます。教育は非常に重要なのです。
教育がしっかりしていたことは、日本が植民地にならなかったもう一つの大きな理由と密接に関係しています。
それは、日本がペリーの来航をきっかけに、西洋の科学技術や哲学を積極的に取り入れ、近代化を推し進めたことです。
教育のしっかりした土台があったからこそ、日本は他国には見られない速さで近代化を達成し、外国の侵略を防ぐことができました。
教育が国家の基本的な力を支える根幹であると私は考えています。
明治以来の日本の経済は内閣府のページでも確認できます。
生麦事件とは
しっかりとした基盤があったからこそ、目覚ましい発展を遂げ、侵略を退けることができたのですが、もし間違いがあれば、日本も植民地になっていた可能性があります。
そう言われている出来事が「生麦事件」です。
生麦事件は、1862年に薩摩藩の行軍中にイギリス人観光客が無断で加わった事件です。
400人もの行列に、鉄砲隊もいる中で、イギリス人は馬に乗ったまま入り込み、止める声も無視しました。
そのため、薩摩藩は武力で対応し、刀で攻撃されたイギリス人1名が亡くなりました。
自国民が殺害された場合、その国民の家族や国の代表者が黙っていることはありませんよね。
実際、この事件によりイギリスは激怒し、翌1863年にはヴィクトリア女王が出席する枢密院で対日武力制裁が決定されました。
世界最強と言われたイギリス海軍は、江戸、大阪、京都の占領計画を立て、イギリス政府は日本幕府と薩摩藩に多額の賠償金を要求しました。
しかし、日本がイギリスの植民地になることはありませんでした。
植民地にならずに済んだ理由は、攻めてきたイギリス海軍艦艇を薩摩藩が撃退したからです。
もし薩摩藩が簡単に負けていたら、イギリスは日本を植民地化していたかもしれません。
それだけ強力だったイギリス海軍を撃退した薩摩藩は、立派です。
近代国家として迅速に軍事力を整備できたからこそ、日本は植民地化を避けることができたのです。
日本が植民地にならなかった事例は、世界中の国々に教育の重要性を再認識させるきっかけとなりました。
欧米の植民地支配に立ち向かい、教育を土台にして顕著な近代化を成し遂げた日本の先人たちには、深い感謝の気持ちでいっぱいです。
イギリスやアメリカで東京支局長を務めたヘンリー・S・ストークス氏は以下のように述べています。
「過去500年間は白人による有色人 種の支配が続いていたが、それを覆したのは大東亜戦争を戦った日本だった」
「日本は万世一系の天皇を頂点とし、他国に征服されずにアジアで最初に近代化を達成し、欧米の侵略を退けた。植民地化された国々が独立を果たせたのも、日本のおかげと言っても過言ではない」
「中韓の日本に対する反感は、この『奇跡の国』への嫉妬に他ならない」
「日本人は自国の長い歴史と豊かな文化を理解し、その特性を活かして世界の新たな秩序を築くべきだ」
確かに、日本が欧米の植民地にならず、第二次世界大戦後には迅速に復興し、世界第二位の経済大国にまで成長したことは誇りに思うべき点です。
また、G7の創設メンバーであり続ける日本は、アメリカに次ぐ経済力を持つ国として、ドイツと共に位置づけられています。
フランス、イギリス、イタリア、カナダと比べても、日本の地位は確固たるものがあると感じられます。
白人が有色人 種を凌駕するという人 種差別の壁を破ったことは重要な成果です。
第一次世界大戦後のパリ講和会議、国際会議で初めて人 種差別撤廃を訴えたのは日本なのです。
この点はもっと日本人が誇りに持つべきことで、世界にもこの事実を大いに発信していくべきだと思います。